昭和54年05月03日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 一段一段、信心が進んでいくということは、一段一段人情の世界から、神情の世界に一歩一歩、近づき入っていくということ。一段一段、進んでいくということは、一段一段去年よりも、今年と言う様に、その心に有難いというものが、育っていくこと。という生き方を焦点としての信心でないと、育っていっておるかの様にあって、いうならその人間心ばかりが育っていく。その証拠に一段一段有り難うなっていっていない。
 昨日研修ん時に、みんな話したことでしたけども、昨日の研修、ことの研修「まぁお互いひとつ歳を拾うていくにしたがって、いよいよもって、ね、有り難い勿体ないの、そりゃぁなるほど歳を取っていきゃ、五体も不自由にもなるし、若い時の様な修行もでけません。けれども、ただじっと座っておってでも、家のおばあちゃん、家のおじいちゃんが、本当神様の前で、御祈念をしておって下さる。どんなことがあっても、『あぁ心配いらんが。』と。『おかげじゃが。』
 と言うてもらうと、本当にそれで一家中の者が安心する、と言う様なね信心と、年を取っていくならそういう信心を、いよいよ身に付けて行きたいね。」と、『もう年を取ったから修行がでけん。でけんから、もうおかげが受けられんごとなった。』と言った様な信心じゃつまらんばい。というてまぁ話したことでいたけれどね。いわゆる年を取るにしたがって、「位が付く」ということは、私年を取るにしたがって、お徳が頂けれる。」ということだと思うんです。ね。
 それには昨日のあの46節である。もうとにかく座っておっても、お徳が頂いていけれるというのは、今日ただ今私がここにあると言う事が、最高のおかげである。と信心の根本が定まってその上に心行であり、又は家業の行であり、と言う様な信心に進んでいかなきゃぁいけない。心歳を取るにしたがって心配が大きくなる不安になる。いうなら人間心がつのる。神様を拝んでおっても人間心ばかりが強うなると言う様な、私生き方が大体もう教団全体にそういう生き方が、に成って来た様な感じがするんです。
 「神ながら」と言った様なものがなくなって、それは神ながらの中にはね、非常にやはり困った事態とかね、脇から見て「もうあげな事でよかじゃろうか。」と言った様なところもないじゃないです。けども「そう言う様なところも、まぁそれこそ神ながらに改められていき、神ながらにいうなら、信心の徳を受けてくると、その徳が一切を浄化していってくれる。徳が一段いちだんとおかげの世界を広げ広めてくれる。」という生き方にならなきゃぁいけない。
 昨日研修ん時に、中村徹美先生が、発表しておりましたが、こういうことを言ってるです。「教えられ育てられ」ということを言ってます。こりゃぁもう徹美先生どんが、場合が、実際そうだったと思うんですねぇ。「始め金光様の先生になろう。金光様の先生になろう。」と思うて、まぁ青年会の御用とかお参りとか、御用とかしとったんじゃぁなかった。なんとはなしに押しやられた感じです。俺がごったとで、金光様の先生でなんてなれるじゃろうか。ともうそれこそ不安と、もうまぁいうなら。
 半信半疑という気持でお道の教師、いうなら学院にやらせて頂いた。始めから本気で教会の息子に生まれてもう、もう「宿命的に、もうお道の教師になんなら。」と言った様なと言った様なときとは違うわけ。ね。けれども起きてくる様々な問題、まぁが自分というものを、あのう教会修行に押しやってしまった。まぁそれこそよろよろしながら押しやられながら、ところが押しやられながら、信心をお育て頂いておるという実感を、まぁそんなふうにまぁ言ったんだと、こう思うんです。こりゃぁ本当にお互いが、そうじゃぁないでしょうか、ね。様々な難儀な問題がある。
 昨日食事ん時に、久富繁雄さんがお話なっておりましたけど、私そのこと忘れとったけどここのご建築ができる前に、蔵のほうが先に立った。末永先生が一人でここに、だからここの夜の夜番に、まぁだ修行に入っておったわけではないけれども、ここに泊まりにきよった。蔵の二階に。で沢山の材料が置きっ放しにしてあるし、まぁ実際ろくそなこってでしたから、それでその一年間か、私あのもう一年間かなんか一ヶ月かっち。一ヶ月じゃったですかねぇ。一ヶ月間ここの蔵にその毎晩泊まりに来たっち。
 というのはあのう、あるいうならば難儀な問題を感じておって、そうせずにはおられなかった。朝も参る昼も参るけれども、やはり夜も夜中も、そういう一つの修行に打ち込まなければおられなかった、という意味の事を昨日食事の時に話しておられましたが「ははぁそげなこちゃったですかなぁ。」と言う様にですお互いでも、まぁ尻に火が付いたというと、ちょっと極限ですけれども、「そこに問題がある。それをおかげ頂きたい。頂かなきゃぁならん。」と思うから思わずいうなら、朝参りも続けられてきた。
 そして続けられておるうちには、朝参りが有り難いものに、身に付いてきたというのが、まぁお互いの信心じゃあないでしょうかね。押しやられ育てられてきたわけです。ところがね「押しやられ育てられ」というても、その育ってない人があるんです。やっぱりいつもが、なにかこう何かに惜しやられ押しやられしながら、お参りを続けておると言った様な人。そして自分の信心がどのくらい育ってるかというと育っていない。今日の御理解でいうと、一段一段とこう押しやられるけれども、理屈は分かった。
 なるほど合楽理念は、もう説明が出来人にしてあげれる位に分かった。分かっただけで、なら合楽理念の実験者でもなからなければ、実証者でもないと言った様な人達があるということなんだ、ね。徹美先生の場合はその押しやられながら育てられて、ね、そのまぁ来ておるということを言っております。ね。なるほどこの神ながら主義という、ことの中にはね、こりゃぁ特にあのう、まる少なんかの場合はそうですもんね。
 まぁ実際まる少がパーと沢山揃うて、いろんな行事どんやってる時には、素晴らしいけれども、さぁ一日も二日もここで信心研修研修っていうか、寝泊りしながらいろんな御用をさせて頂く時、いろんなその注意を受けることがあります。「あんなことで良いだろうか。」と。「もうあんな事なら家の子供は、まる少にはやられん。」とか言う様な事がある。これはうんならあのう、信者一同の上にもいやぁ、言えれば又はあのう修行生一同の上にも言えれることです。
 「もうこの頃合楽、合楽と言うて、もうその合楽ボケしよる。」と言った様なところもあるんです。ね。ところがその合楽ボケを抜けたところにです、しかし今日の御理解というか、昨日私共が話したという、歳を取るにしたがって有難うなっていき、自分の周辺の者が「おばあちゃんがあぁ言うてじゃからもう安心。」と言う様なね、周囲に光と喜びと安心を与えられるほどしのおかげを頂いて始めて、あのう育たてられていくということになるのじゃぁないだろうか。
 一遍は訳が分からんような、なら合楽の修行生が今五十名もおるでしょう、ね。その人たちの中に「あぁあの修行生は感心だ。」というのもおりゃぁ「あげなこって修行生でいいじゃろうか。」と。「あれで修行しよるとじゃろうか。」と、なら言う様な人もあります。またわざわざここに、いろんな進言をして下さる方たちもあります。いうならば神ながらな主義というて、あのう放任しとるというわけではない、ね。これはなら中心である私が、ならそういうことを見たり聞いたりする場合にです、ね。
 いよいよ自分の信心を見直させてもらい、またはその修行生なら修行生、信者なら信者のために祈らせてもらう。そういう生き方で、今日まで来て参りましたが、それが皆んなおかげになっておると言う事ですよやっぱり。人からとやこう言われると言った様な場合であっても、ね、やはりそういうところをね、いうならあのうなんて言うですかねぇ、特に学院なら学院、御本部なら御本部あたりの場合は、ここにこういう決まりを作る。(?補修規)を作る。
 「学院ではこうなからなければ、ああなかれなければならん。」と箱の中に詰め込んだような教育をする。または大きくなっていけばそうならなければ、しかたがないのかもしれんけれども、それではしかし大きいいうなら、大きく育つということがありません。育つどころかちじんでゆく。教団がそうでしょうが。ね。いうならば箱庭のような感じ。いうならば鉢植えの植木のような感じ。そして伸びよると摘み、「そこは切らなきゃぁいかん。曲がりよると真っ直ぐせにゃぁいかん。」というて。
 こう植木を扱うようにして、信者を育てる先生たちを育てるところに、なにかそこにまぁなんて言うでしょうかね。(?青白き書生さん)ばっかりが、でけてくるということになったり、いうならば人間心ばかりを使う信者たちになったり、教会になったりというところにです、いうならばこの限りない大きく、いうなら野生的なというかね、いう大地に絶しっかり根をおろして、もう自由奔走自由自在にこう育っていく、大きくなっていくと言う様なものがなくなってきたんで、ように思う。
 だからそのいうならまぁ合楽でいうなら、最近言われる合楽ボケと。合楽ボケ的所もあっていいじゃぁないだろうか。でなからなければいけない。そこをいう神ながらに神様にお縋りをして押しやられながら、お育てを頂いてゆくという、神ながらなお育てを頂いていかなければいけないんだと。だから成程ま子供まる少に預けておる。成程ヒヤヒヤするようなこともある。
 けれども親先生の祈りの圏内で、子供達があのようにして育てられていっておるのであるから、間違いがない安心。心配いらん。あのように育てられているんだと、安心のいっておる親たちは、もうここにまかせきってるです。そしてそれは、結果においては、それがおかげを頂いていっておるということなんです。それこそ箱入り娘というが、自分の家の上に、箱入り娘的な育て方をして。
 果たしてそれが、なら世のお役に立つような、人間に育っておるかと。人間の知恵力で育てよう。教育しようと、言う様な事ではいけない。本当のことは育たないと言う風に、私は思うです。ね。時期が来るとちょっとそこには、自ずと生まれてくる、いうならば教育とか、自ずと生まれてくる人間心を使わずにでけてくると言った様な、なら合楽の場合でもそうです。ね。まぁいつの間にか誰が総代で、誰がなんでと言う様に決めたこともなにもないけれども、ね。
 いつの間にか総代がでけて、いうなら今の総代さん以前の総代さん方はそうであった。もうそれこそかん一番初めのお祭り、ご大祭を仕えた時に前に座っておられる方たちが、五人「なら前に座っておる方達から、五人玉串上げてください。」というたその五人が総代になったんですよ。合楽の場合は。ね。それが段々こう信心のお育ても頂いてね、「もう、この人ならば、もう総代としての。」と言う様にその神ながらに、もうそんなように育っていっておるわけ。ね。
 昨日私食事の時に、新聞を見せて頂いたら、こうなんか英語で書いちゃった。そんで意味が分からんから、高橋さんが一緒ですから、「こりゃぁなんち書いてあるのう。またなんという意味のう。」というてまぁ聞いたんですけど、なんじゃったですかねぇ。カテゴリーなんかとにかく、そげなふうな事が書いちゃったです。「だからそのどげなこってすか。」というたら、もうこれを漢字に直すと漢文にっていうかね、漢字に直すとなんち言うたの、「範疇」と言う様なことになる。
 「範疇ちゅうっち言う事はどげな事のう。」というてまぁ言いましたが、丁度あのう今の修行生の人たちの中に、どんどんと修行ができとるともおりゃぁ、かえってどんどん低下していくともおる。「お前はそんな事でよかか。」っちいうごたあるともおる。けれどもこれも神ながら主義と、今日までこう来たけれども、こう言う所がこう神ながらに育てられていく、ひとつ何かなら範疇ちゅうなら、範疇ってはん五人なら五人の者を、こう間違えなくこうなんか、一つきちっとしていくと言った様な。
 そう言う様な事も必要ではなかろうかと言う様な事でした。ね。その神ながら主義というても、どんどん伸びるとこういうても、ね、しかしその伸びて「ここは伸ばしちゃぁいかん。」。これは例えば木がこう、どんどんと伸びとる、ここには家がある。その家にかえって差し障りになるというのは、切らなきゃあいけないでしょうが。ね。あんまりその片一方にばっかりに、こう育っていくなら片一方のを切って、片一方の方を育てにゃぁならんというように、ね。
 根本的には大地に根をおろした、どっかりとした信心をお育てを頂くと同時に、ね、「ここは切らなきゃぁいけない。」というとこは、切る「ひとつの合楽にも、そういう時期が来ておるのではなかろうか。」と言う様な事を話した事でした。ね。信者ん中にもいうなら無茶苦茶な人たちもあります。けれども「合楽にお参りするなら、そげなこっちゃぁいけんよ。」というある程度のいうなら、あのう切ったりまた曲げられたりするところにです、「お育てを頂く」ということになるのじゃぁないだろうか。ね。
 いうならばそれが周囲に災いする、周囲を乱すと言う様なことになって、に言う様な事は、やはり正させて頂くけれども、根本は「どこまでも、神ながら」という生き方でないと、今日申しますように「一段一段、信心は詳しくなる」というのじゃぁなくて、信心が育っていくというおかげ。それをまぁ結論すると「信心させて頂くようになったら、だんだんおかげを頂いて、人情を使わんで、神情一本でいけるようになった。」というお育て、又はそういう年の取り方でなからなければ、年を取れば取るほどに。
 いうなら人情が強うなって心配不安。先がもう真っ暗と言うよな感じになるのです。お育てを頂くということ。押しやられる、そして育てられということは、私共もやはり押しやられるような、様々な難儀、問題を感ずる時に、神様に向かわずにはおられなくなってくる。そしてお育てを頂くなら、どういう問題を通しても体験したことは「神様のおかげを頂かなければできんのだ。してみると神様のお心次第に、こちらが成らせて頂かなければいけないんだ。」
 と言う様な育ち方にならなければならない。「おかげで人情を使わんですむようになった。おかげで神情一本でおかげを頂いていく。」というところに、私はおかげがある。お徳が受けられる。一段一段有難うなってくる。歳を取るにしたがって位が付いていくということは、そういう神情一本に絞っていけれる、おかげに育っていかなきゃぁならん、ということでございます。この頃徹美先生が、先だってから頂いておりますように、ね、溝にせっきりがしてある。
 そのそのせっきりの中に、小さいめだかのような、ハヤのような、そしてフナゴのような、フナのようなその魚が、ずっとこうせっきりしておいてやって、番号が書いてある。と言う様に信心が育っていくわけ。ね。そして次にはうなぎがおる。そのうなぎの時代が信心しよってどうして。「ちっと信心ボケしたとじゃぁなかじゃろうか。」と周囲から言われ、自分は掴み所がないこれと説明もできないけれども。「神様のご神意ご都合に間違いない。」とそこをどの様な場合であっても、掴み所はないけれども。
 そこを抜け切っていくと言う様な生き方。そこにいよいよどじょうが育っていくというお知らせであった。だから又その辺にも一つの誘惑がある「そのドジョウを蒲焼して食べてしまう」と言った様な事ではなくて、そのドジョウをいよいよ育てていくという生き方になって、いうならば完璧な信心の完璧というとちょっと言葉があれですかね、もういよいよ間違いなくいうなら信心を育てていき。一段一段有難うなっていき、一段一段位が付き一段一段おかげの世界も、広がっていくというおかげになっていくのです。
 だからそういう過程過程をです、大事にしていけれるような信心に、果たして自分がお育て頂いておるであろうか。「本当に以前はもう人間心ばっかりで、心配しよったのがお取次ぎを頂いたら、もう人情を使わんでもすむ。」とねご神意のまにまに動かして頂けれるようになり、一段一段自分の心の中にもう人間心まぁいうならば、しかとうもない人間心です。後から考えてみると。それで自分を窮屈にしたり、心配であったりするんです。ね。そういうものを捨てきって、こう抜け切っていくね、信心。
 そこにいわばお育てを頂いておる自分を感じる。また有難いというものも育っていっておると。そういう意味で、そういう意味でのおかげを、まずわが身に受けていっておるか、どうかを確かめての信心でなからなきゃぁいけない。ね。なるほど、押しやられて、朝参りもするようになった。その教えられながら、なら果たして押しやられるだけで、おかげは頂いておっても、果たして自分の心が信心が育てられておるか、どうかということを確かめて、信心を進めていかなければいけんと思うですね。
   どうぞ。